幼児退行 終わりに
ずっと認めるのが嫌だったが、やはり幼児退行は「フェティッシュ」の一つなんだと思う。
ずっと昔にフェチの学術研究みたいなまじめな書を読んだことがあるが、そこには「すべてのフェチは人を愛することの代替行為である」とあった。SMもコスプレもスカリフィケーションもスワッピングも下着愛好も女装趣味も、たぶん人を愛することの代替行為なんじゃないかと思う。つまり、フェチに身をゆだねている間は真に人を愛することがない、人と向き合うことがない。
フェチの人は基本的に孤独なので、人間関係は得意ではない。だから人を愛するトレーニングの機会を得ることも多くない。でもある種の「凝り性」であり、ものすごく一途なところがある。だから人を愛する方法を地道に学ぶことができれば、結構いい妻やいい夫になるのではないかと思うことがある。
しかしながら事は簡単ではなくて、私の場合は幼児退行というちょっと変だけど人畜無害なものだったし、きわめてストレートな形の求愛欲求の表れだったからそのまま普通の愛情に移行する努力ができるけれども、もっとややこしい嗜虐趣味組なんかの場合は相当大変だと思う。
崩壊するとわかっていてもその相手と出会えば体の内からこぼれてしまうのがフェチ魂である。そのせいで何人かの男性と別れたがそのうちの一人がこんな指摘をしてくれた。「その甘え心を僕にだけじゃなく、ほかの人にも向けなさい、ただしごく薄くして」と。それまで私は結構自分に厳しく他人にも厳しい人であった、そしてそのストレスのせいで二面性を持つようになり、甘える場所を求めてさまよっていた。
甘えが進行して苦しかったことのもう一つは、人格がどんどん乖離していくことだった。外ではしっかり者(というか今思えば単なるイエスマン)、家では甘えん坊とどんどん人格が分かれていった。たまにSMプレイに於いて、M奴隷として名前を持っている人がいるけれどああいうのはほどほどにしたほうがいいんじゃないか。ストレス解消には最高だけど、二つの人格の間でいつか苦しむことになる。人格はなるべく統合させるべきで、そのためには隠したい自分をオープンにしていかないといけない。その出し方を学ぶのが大人の生き方なんだと思う。ダメな自分を外に出す、加藤諦三の言うところの『感情を出した方が好かれる』というのは正しいなと最近思う。おまけに自分も楽であることもわかった。
幼児退行の一連の話はこれでおしまい。